常勝腐敗

ワクワクの大腸内視鏡検査、続編だぜ!

 

まだ星にならずにすんだ。

 

以上。

 

…いやもう、あっさり終わったんだよ。

今さら言うのもなんだが、大腸内視鏡検査における日本とアメリカの最大の違いは、日本はウトウトする鎮静剤を使うかまたは何も使わない、一方のアメリカは麻酔でガッツリ眠らせるということだ。

緊張して病院に行ってみると、まずは更衣室ではなくトイレで服を脱ぎ、後ろが開く解放感満点な手術着に着替えさせられる。

そして、看護師さんたちに次々と話しかけられる。おそらく俺の緊張をほぐそうとしてくれているだろう。

「どこから来たの?」

「すごく若く見えるね!」

「今日は左利きばっかり!」

「カバンは私が持つからあなたは大事なところを隠してね!」

などなど。

そのうち手術室に送られ、今日初めて会うインド人の医者に自己紹介されたかと思うとアッという間に点滴針から麻酔を投入されたっぽくて、起きたらリカバリールームにいた。

寝ていたのはたぶん20分ぐらいだと思う。まったく何も覚えていないし痛くも痒くもない。


ああそうだ、ブログ用に何か写真を撮らないと、と思って撮ったのがこれだ。

何これ。

そう、麻酔のせいで色々おかしいのでマトモな考えや行動ができないのだ。

当日はクルマの運転が厳禁で付き添いが必要とされている理由がよくわかった。

 

ドキドキの初大腸内視鏡検査当日は、これで終わりである。

その後はちょっとだるいのとお腹がキリッと痛む時もあったが、一晩寝るともうすっかり元に戻った。

ちなみに潜血野郎の検査結果は。

 

「ポリープも憩室もなんにもなし。ただし肛門付近に痔がある」

 

という、ある意味衝撃的なものであった。

今まで自分が痔を持っているなんて考えたこともなかったし、自覚症状もなかった。

今回の潜血はこれが原因ってことでいいのだろうか…、しらんけど。

 

次は7~10年後にまた来いと言われたよ。

まあ行きたくないよね。

でも、日本でやるあの苦しい胃カメラよりははるかにマシだった。

次は日本でも絶対に絶対に鎮静剤を使ってもらおうと強く決意する俺であった。

 

追記

クルマで送迎してくれた妻によると、俺の記憶は現実とはだいぶ違っていたらしい。全部麻酔のせいだ。

・術後、医師に会わず結果の紙だけ貰ったと思い込んでいたが、会って話も聞いていたらしい。まるで覚えていない。会った意味なし

・パンツを履かずにズボンだけ履いて出てきたらしい。まるで覚えていない

・身に覚えのない謎の自撮り画像がいくつかあった。完全にいっちゃった顔をしている。まるで覚えていない

麻酔の後はこんな状態になる人もいるので、みなさん気をつけましょう。

 

盛者必衰のお断り

……潜血ッッッ!!

 

毎年日本に帰省した折には健康診断を受けているのだが、今回は検便で潜血があるとお医者さまから告知されてしまったのだ。

今まで血中脂肪が高いと言われる以外はそこそこ健康体だったのに。人間こうやって衰えてゆくのだなあ。最近手の爪なんかもすぐボロボロになるんだよ困るよ。

というわけで、潜血がみつかると次に言われるのは、大腸内視鏡検査を受けろということ。

 

嫌だ。断る。

 

胃カメラでさえ超絶苦手で年1回でも悲愴な顔をして決死の覚悟でのぞんでは案の定臨死体験ゲーゲー丸になって優しい看護師さんが背中をさすってくれなければその場で悶死もしくは憤死しそうな勢いであるのに、今度は大腸カメラとな。人を頓死かつ狂死させるつもりか。

大腸カメラ。やりたくない。とてつもなくやりたくない。独身ならやらなかったかもしれないが、今はかわいい子どもの顔が目に浮かぶ。何かあっても困るのでやるしかない。できればまた日本でやりたいところだが、緊急性を考えるとやむをえずアメリカでやるしかない。嫌だ。本当に嫌だ。

 

で。

 

大腸内視鏡検査というのは、日本とアメリカではやり方が少々違うらしい。

日本では検査前日は夕食抜きのみ、当日朝から病院で2リットルの下剤を飲むパターンが多いんだって?

アメリカでは、前日は一日絶食して当日も絶食…いやもう絶食ばっかり!お腹空く!

かく言う今は前日の絶食まっただ中なのである。

まあ、やってみると絶食というのは個人的には大したことはない。新手の断食だと思えばよいのだ。健康的だねっ。

しかもアメリカの断食じゃない絶食、透明なジュースはOKで、なんとゼリーやアイスまで食べてもいいらしい。こんなの断食じゃない!

こいつを見てくれ。
前日は絶食、CLEAR LIQUIDS(透明な液体)は飲んで良しと書いてある。

これが妙に具体的で、ジンジャーエールとかゲータレード、そしてJELL-O(アメリカで売ってるあんまりおいしくないゼリー)やPOPCICLES(アイスキャンディー)もアリだと書いてあるではないか。ちなみにCRYSTAL LIGHTはもちろん、ITALIANなんぞ一体何を指しているのかググってもわからん。

というわけで俺は今日、ゼリーとアイスだけを食べている。そして速攻で飽きた。もう何も食べなくていい。

ちなみに牛乳と、赤色と紫色の飲み物は検査にひっかかるのでダメらしい。

そして次はこれだ。謎の下剤群である。

上のDULCOLAXというのがタブレットタイプの下剤であり、前日の午後3時に飲むように指示されたのでさっき飲んだ。

そしてその1時間後に、下のCLENPIQというボトルをまず1本飲む。

日本では2リットルのマズい液体を飲まされるそうだが、こっちではこのボトルを5時間ぐらい空けて2本飲み干し、その間になんでもいいから前述のCLEAR LIQUIDSをたくさん飲んで押し流すという方式らしい。

このCLENPIQ、1時間ほど前に1本目を飲んだ。クランベリー味とか書いてあったが見事にしょっぱくて思わず投げ出しそうになった。例えれば腐ったタマネギを炒めてさらに腐らせたような後味がたまらない。が、まあなんとか飲んだ。夜になったらもう1本だ。なんだかだんだんお腹が痛くなってきたような気がする。

 

で、5時間たったのでまたもう1本腐ったタマネギジュースを飲んだ。

お腹はちょっと痛くなるものの、あまり大したものが出ない。

自慢じゃないが俺は腸が長いのかねじれているのか昔からお腹が弱くて、こうした下剤みたいなものは大抵効きにくい。人によっては30分で腸がキレイになると言われても、俺は6時間たってもまるで変化なとか思ってたら急にキタわぁ!!

怒涛の濁流が奔流と化して流出してゆく!!思ってたんと違う!!

便がどうこうではなく、体内にひたすらためこんだ薬液と水分(CLEAR LIQUIDS)がとてつもない勢いでナイアガラ瀑布してゆく!!

ああでも、これとおんなじ事象をかつて体験したことがある。

あれは10年ぐらい前、極めて暑い日、ひたすら歩いてメンフィスの街のモーテルにたどりついた時、あまりの喉の渇きから1ガロン(3.79リットル)のリンゴジュースを一気に飲み干してしまった直後に発生したあの状態と同じだ。

まさかあのシャーシャー体験を今になってまたする羽目になるとは…。

 

まあそんなことはどうでもよい。とりあえず何かが出たっぽいので明日検査を断られるようなことはたぶんないだろう。寝るまでにもうちょっとクリアーな液体になればよさそうだ。よしもうちょっと水を飲もう。

この前日処置、CLENPIQの後味のマズさもそうだが、大量の水分を摂るのが苦手な人にはなかなかキツいだろうと思う。俺は食べ物よりも飲み物のほうが好きな体質なので特に問題ないんだけどな。

 

では、明日の朝こそが本番である。

どうか医療事故が起きませんように。

 

 

たまに行くならこんな口

神戸の中心地である三宮には、昭和8年(1933年)からある古い地下出入り口があるらしい。

これか。確かにあったわ。

たまたま三宮に行く用事があったので見にきたら、本当にあった。

A14出入り口、もしくはガリバートンネルとも呼ばれているらしいが、神戸生まれのシティボーイであるこの俺でもまったく存在すら知らなかった。

そもそもこれが何かというと、ただの地下道に入る出入り口である。

ちょっと降りてみる。

照明はともかく、狭い階段の左右の壁は90年近い年季があるのだろうとふんわり思わせる。

知らんけど。

こういうところに出てくる。いや入ってくるか。

どうでもいい。

この通路はJR三宮駅から味ののれん街という飲食店街に繋がっている。

俺がそこで飲食したことはもちろんない。

今回も飲食しないので、じゃあちょっと上がってみる。

どういう人がこの狭い出入り口を利用するのかよくわからないのだが、飲食店から出て特定方面のバスに乗る人なら使うのだろうか。

もしくは俺みたいなよくわからないヤツが使うのだろう。

裏はなぜか草が生い茂っている。

 

震災も空襲も乗り越えてきた、90歳の小さな出入り口だ。

しかし三宮駅周辺は今大規模な再開発中なので、この歴史ある出入り口が無くなる可能性もある。

そんなわけで見てきたし、記念に写真も撮っておいた。

特に深い思い入れもないが、誰かの役には立つかもしれない。

 

ほなまた。

鼓動

ヤマハのゴルフカートを中古で買った。

子どもの学校送迎用である。

アメリカでは送迎やコミュニティ内移動用途でゴルフカートを乗り回す人は多い。

こうして後ろ向きにも人が乗れるのでよく学校帰りの子どもが座っている。

しかし俺は子どもが落ちそうで怖いので、カートがウチに来てすぐに社外品のシートベルトを付けたのは言うまでもない。

あとはウインドシールドとサイドミラーを付けたぐらいか。

ちなみにアメリカでゴルフカートの三大メーカーと言えば、Club Car、EZGO、そしてヤマハであるらしい。

確かに気にして見れば周囲のゴルフカートは大体この3メーカーである。ヤマハがんばってるな。

 

まあそれはさておき、ゴルフカートという乗り物には初めて乗ったが、もう普っ通ーに電気でシュルシュル動くだけなんだよ。便利かもしれないが、これといって感動もない。

エンジンの付いたバイクを思い出す。

エンジンが剥き出しになったタイプだ。

アイドリングで暖機させている時の、単気筒が奏でるあのパパパパという小気味のいい音が好きだ。それと振動。熱。排ガスの匂い。バイクを新しく買った時など、側でずっといつまでも眺めていられた。

これがクルマとなると、個人的にはそれほどでもない。電気自動車ともなると更に興味は薄れるのだろう。電動ゴルフカートなどは言うに及ばずだ。

バイクというのはそういうところも含めて、五感で人を魅了する乗り物だったんだなと改めて思う。

いかんせん危ないから子どもには乗って欲しくないけどね。

 

 

 

モリアーティ教授

子どもが土曜日の日本語学校に行っている間、久しぶりに壁打ちでテニスの練習をしていたら、知らない人にこう声をかけられたんだよ。

「反対側の壁で君と同じ左利きのいいプレイヤーが練習しているよ。」

その人がなんでそんなことを教えてくれる気になったのかよくわからんのだが、ひょっとしたらその人もテニスが趣味なのかもしれない。その時は娘たちとバレーボールをしていたのだが。とにかく、そう言われたのでこちらも一応、

「へーそうなんだ、ちょっと見るよ。」

と答えるしかないわけである。で、反対側をのぞいてみたら、確かにいた。左利きで同年代のおじさん。パワーが凄そうだ。

まあ壁打ちにも少し飽きていたところだったのでついでに話しかけてみたところ、すぐに隣の空いたコートでちょっとテニスをしようということになった。趣味が同じだと展開は早い。

でもそのおじさん、

展開のみならず打球も速かった。

球のスピードとスピン量の両方がもの凄く、自分の経験したことのない速さと軌道であっさりとコーナーを抜かれてしまう。

何者だこの人。またエラいのに声をかけてしまった。

20年ぐらい前は学生テニスでバリバリやってたんだろうな…と思って聞いてみたら、かつては試合で世界を回っていたという。え、それプロやん。ネットで名前を検索してみたらプロ選手のデータベースに本当にいたわ。今とは相当にあれもこれも違う若い顔写真だったけども。

まぁ、これも出会いである。むこうとしては物足りなかっただろうがこちらとしては非常に良い経験になった。

今はテニスとはまったく関係のない、どっかのセールスマネージャーとして働いているらしいこの人、名字がモリアーティという。ホームズの悪役で教授さと言って笑っていた。

テニスは強いしナイスガイ。連絡先は交換したのでまた機会があれば打ちたいものだ。

インド式とは何か

うちにはテニス用のボール出しマシンがあるのだが、最近あまり使わないのでテニス仲間のインド人たちに貸し出している。

しかしまたバッテリーがヘタってきたようだ。バッテリーは大体半年ぐらいでダメになってくるのでその都度新しいのを買って交換する必要があるが、今回はインド人たちが自分でバッテリーを買って交換までするそうだ。よしよしそれは楽でいいぞ。

しばらくして、交換が終わったと言ってコートに持ってきた。

よく交換できたなあ。これ意外と箱開けるのがめんどくさ……ん?

何コレ?

げっ、バッテリーむき出しかい!!

バッテリーを外付けハードディスクみたいに外に出すなよ!脱腸か!!

話を聞いてみるに、昨夜インド人2人とイラン人1人の3人がかりでバッテリー交換作業をしてみたところ、どーーーしても箱の開け方がわからなかったので、ついにこのような暴挙に出てしまったようだ。

自信まんまんで俺なら直せる!とか言ってたのにまさかこんな変わり果てた姿で帰ってくるとは…。わからんなら俺を呼ぶか携帯で聞いてくれよ。

主犯の1人、サンジェイ。これでもIT会社を複数所有する金持ちらしい。

このボールマシンは確かにちょっと整備性に難があるとは思っていたが、だからと言ってまさか穴を開けて外にバッテリーを繋ぐとは想像だにしていなかった。もう呆れるよりも爆笑である。

でもこの外付けバッテリーどうするんだろ。移動の際には別々に抱えて歩くのか。一緒にいた台湾人に見せたらやはりまったく理解できない仕上がりなようで苦笑していた。

しかし、もう1人の主犯であるインド人ラメーシュいわく、 

「これがインド人のアイデアだよ!」

とのことなので、まあインドではこのやり方が当たり前なのだろう。妙に納得した。

国際相互理解はまだまだ遠いと感じた事件であった。