若年性恍惚日誌 -味覚-

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久しぶりに卵を買ってきたので、焼き飯を作ることができる。
無論、具はない。
米と卵と塩と胡椒、それに醤油があればできあがる。あぁ、油もいる。
そんな味気ないものをよく…と火照る目頭を押さえながら嘆く人もあろうが、いや、それほどひどい味ではない。
いたってプレーンな、働く時間と体力がある割には何もしていない妄執の人には似つかわしい料理である。

ところで問題は調理の最終段階で登場する醤油であって、かつて複数人の料理上手たちが、
「醤油はナベハダから滑らせるように入れるものだよ。」
などと親切にも教えてくれたものである。
俺もその教えを守ってしばらくはそのようにしていたのだが、これがどうもよくない。
火加減が悪いのか手際が悪いのか、鍋の醤油が伝った部分だけに、どうしても醤油の焦げ跡が残る。
俺はこの現象がとても疎ましく、従って結局、元の『醤油は上からぶっかけ方式』へと回帰した。
しかし少しは工夫して、できるだけ醤油が固まって降りかからぬよう、霧状に近い噴霧を目指してはいる。

年齢と経験、自我が強く幅を利かせてきたことによる頑固さ、そういったものが、俺の料理を高みへと導かない要因であるかも知れない。
が、個人的にはまったくこれでいいし、むしろこうしたアンチな挙動が好きなのである。

そうか…ここで終わると、ただの味オンチと認定されるだけかもしれない。
別に自分の味オンチを強く否定はしないが、味オンチなりの主張もしておきたい。

そもそもグルメや食べ歩きにほとんど興味がない自分ではあるが、たまには外食をすることもある。

先日入った蕎麦屋は、素晴らしく山の中にある丸太小屋であって、
近くには渓流が流れ、よくまぁ電気が来ているものだと感心するような豊かな立地である。
その蕎麦屋に我々は蕎麦ではなくカレーを食べに来たわけなのであるが、
そこの大層な趣味人であるらしき店主いわく、
「試しに蕎麦を打ってみたら、これがどう考えてもおいしい。それで店に出すようになりました。」
とのこと。
それほど言うのであれば、きっと美味い蕎麦なのであろう。
だが、俺がとにかく気になっていたのは、
最初に出てきた水がマズい、ということであった。

それがマズい水道水なのかマズい井戸水なのかを判別するほどの力は俺にはない。
ただ、入店して最初に飲んだ時から、「あ、おいしくない水…。」と思っていた。
都会の喫茶店ならいざ知らず。
そう、日ごろからプレーンなものばっかり食べているせいか、水の味にはそこそこ敏感なのである。

その水を使ってカレーを作ろうがコーヒーを出そうが別に構わないのだが、
「どう考えても美味い蕎麦が…」と言われた時に、なぜか俺の心はさざめいた。
実際に美味いかどうかは別として、この水を使って出来た蕎麦をありがたく食う気にはならないな、と。

結局は個人的な、かつ心理的な問題である。
そもそもその水が客観的にマズいかどうかはわからないし、自慢の蕎麦にその水を使っているかも確認したわけではない。
早い話が、気が合わなかっただけである。
ただ味覚というのは往々にして、味覚以外の感覚が大きな声で主張してくることが多い。
たぶんそういうことを、不満まじりに書きたかった。

裏庭の家庭菜園は最近の雨続きに大喜びで雑草を茂らせている。
どんな味の野菜ができるのか、そもそもできるのか、楽しみである。