4月4日(日)その3 凍夜

軽量化を果たしたコンテナを出発した時点で午後4時ぐらいだった。

そこから延々と進み続けている。
3kmぐらい走っては、しばらく降りて歩く。その繰り返し。

すでにわかっていたことではあるが、
俺は一輪車に長時間、連続で乗ってはいられない。
股が痛くなるのだ。

正確には痛くなるというか、血が止まって痺れてくるような感じ。
これをムリに我慢して走っていると、
だんだん痛みが増してきたり、逆に感覚がなくなってきたりする。
今はまだ大丈夫だが、経験上ずっと乗っていると、そのうち恥骨のあたりも痛みだしてくるだろう。

ケプラヴィーク空港のあたりは、
飛行機から降り立った瞬間に「なんにもないなー」と思ったものだが、
それでも遠くに家や街のようなものは見えた。

だが今は、それすらない。

綺麗に舗装され、路肩もずいぶん広く取られた道がただ1本、ひたすら伸びているだけだ。
ハイウェイと呼んでもいいこの道のほかには、左手の遠くには海、
それ以外はどこを見回しても、まったく荒涼とした雰囲気の大地しか見えない。

これがアイスランドなのか…。
荒涼とした…、そう、荒涼としたとしか言いようがない。
岩と土とわずかな草ばかりの、人の気配を見せない大地。

ハイウェイはいつしか2車線になっている。
クルマがもの凄いスピードで飛ばしていく。
意外とクルマの数が多いと思う。

アイスランドは、北海道と四国を足したぐらいの面積の島で、
その中にたった30万人の人間しか住んでいないらしい。

30万人といえば、北海道で言えば旭川市の人口35万人よりちょっと少ないぐらいだ。
つまり、北海道より広い面積に旭川市民だけが住んでいるようなもので、
それだけでいかに人口密度が低いかがよくわかる。

でも、意外とクルマが多い。
自分が走っている路側帯が広いからあまり気にならないが、
もっと近くで今みたいにビュンビュン走られたらかなり怖いことだろう。

気温が、少しずつ下がってきているようだ。
とはいえ俺は一輪車で走っているので、むしろ暑い。
ノドが乾いているのだが、水をほとんど持たずに出発してしまったので、どうしようもない。

気がつけば、いつしか周囲が暗くなり始めている。
もう午後9時だ。

アイスランドは白夜の国。
7月の白夜の時期には、一日中太陽が昇り続けて夜がない。
そのかわり、冬の極夜になると、太陽がほとんど昇らず暗闇の世界になるとか。

今は4月初旬。
夜中でもわりと明るいのだろうと思っていたが、
9時過ぎの今になってだんだん暮れてきたような感じだ。
これでもずいぶん珍しい気はするが、勝手に自分で想像してたよりは暮れるのが早い。
この様子では、暗くなる前に首都レイキャヴィークに着くのはムリかもしれない。

吐く息は当たり前に白い。
道はまっすぐ伸びるばかりで、一向にどこへともたどり着く気配がない。
たまにハイウェイは左右どちらかに分岐を示し、
その道はどこかよくわからない街へと続いて行くようなのだが、
その街に行ったところで、何がどうなっているのかまったくわからない。
どの程度の規模の街なのか。そしてそこに行ったところでどうなるのか。

俺の目的は、ただアイスランドを一周するということだけ。
一周は大体1500キロだそうで、他にはこれといって何がしたいということもないし、
そもそも他に何があるのかよく知らない。
今はただ、レイキャヴィークを目指して走るしかない。
なぜなら他に目的がない。

やがて、いよいよ寒くなってきた。
周囲もいつしかすっかり暗い。
どうも、アイスランドの4月の気候をナメていたようだ。
北海道と同じぐらいの気候だと何かに書いてあったが、
こりゃ今時の北海道より間違いなく冷えてる。
俺は今のところ一輪車を必死に漕いでるおかげでそんなに寒さを感じないというだけだ。

あれ、あの正面に見える雲、面白い形をしてる。
横ではなく縦に伸びる雲なんか初めて見た。

雲…、雲?
あれはひょっとして。
いやたぶん。
オーロラってヤツじゃないのか?

縦に伸びた帯状のモヤモヤは、雲よりも忙しくユラユラしている。
淡い白というか緑というか、不思議な色。
一輪車で走りながらジッと見ていると、縦の帯がだんだん伸びてきた。
そのうち俺を貫くように、前から後ろへズビーンと広がり、
それが一斉に、スラスラと揺れるのだ。

もはや雲とは明らかに違う。
物体の重みをまったく無視して、
満天の夜空全体を、信じられない速さでかけめぐり、ひっそりとゆらめく光。
囁くように、激しく輝く、無機質な、凍てつく光。

これが、オーロラ。

…普通のカメラじゃなんにも写らない、こんな光が…この世にあるとは…。

それにしても。
アイスランドに着いたこの日に、いきなりオーロラかよ。
歓迎してくれてるのだろうか。

でも、寒いよな。それに、疲れた。特に右ヒザが痛い。
そして、眠い…。

でも前方には道があるだけで、周囲は真っ暗な荒野。空には怖いほどのオーロラ。

眠い…。

あまりにも眠い。
しょうがないので、少し仮眠を取らせてくれ。

幸い、2車線のハイウェイの路側帯は2mほどもある。
そのさらに外側の隅っこで、おもむろに寝袋にくるまって寝てみる。

…ダメだ、寒すぎる。
どう考えても北海道より寒い。
とても眠れたものではない。

そしてまた、夜中なのにビュンビュン通り過ぎるクルマの20台に1台ぐらいの割合で、
わざわざ止まって声をかけてくれる人がいるんだわ。

「大丈夫か?そんなところで何をしているんだ?」

「あぁ、大丈夫。ちょっと眠くて寝てただけだよ。」

そんなやり取りを何度か繰り返す。
確かに、路側帯で寝袋にくるまって寝てるヤツを目撃したら誰でも驚くだろう。
これはオチオチ寝てもおれんと寝袋を撤収して歩き出しても、
やっぱりしょっちゅうクルマを止めては声をかけてくる。
兄ちゃん、姉ちゃん、おじさん、果てはパトカーまで。

アイスランド人って…どうやらいい人が多いっぽいよ。

しかしあぁ、どんどん寒い。
それにしても、レイキャヴィーク遠いなぁ。荷物、重いなぁ。
ノドも乾いたし、ヒザも痛いなぁ。

あ…、目の前にまた、ハイエースっぽい箱型のタクシーが止まった。

バックしてきた…。

そしてやっぱり、俺の前で止まる。おじさんが出てきたぞ。
まただ。

ここで俺は、もはや習慣と化しつつある定番セリフ「アイムオーケー」を繰り出す。
しかし今度のおじさんは、しぶとい。

「私はこれからタクシーターミナルにクルマを戻しに行くところだ。
 こんな寒いところにいたら大変だぞ。金はいらないから、乗っていきなさい。」

そう言って、サッサと後部ドアを開いて待っている。

なんていうか、その流れに沿って俺もあっさりクルマに乗ってしまった。

車内は暖かい…。

「今夜は-2度だ!」

おじさんが言う。
どうやら話好きで愉快な人柄のようだが、俺は少々呆然としている。

クルマは速い。
あっという間に街が見えてきた。
彼はレイキャヴィークの手前らしき街にあるタクシー会社の事務所まで俺を連れてきてくれた。

「で、今夜はどこで寝るんだ?」

「特に決めてないけど、もう午前1時だし、どこかで適当に朝を待つよ。
 さっきもちょっと道の端っこで寝てみたりしたんだ。」

「そんなトコで寝てたら轢かれるぞ!アイスランドにはクレージーなドライバーもいるんだ。
 君がどこかで凍えてるかと思うと気が気じゃないな…。よし、ついて来なさい。」

彼はそう言って、俺を事務所の中の1室に案内してくれた。
そこにはベッドがある。どうやらタクシー運転手の仮眠室のようだ。

「今夜はここで寝るといい。ひょっとして、お腹が減ってるんじゃないのかい?」

そう言い残して彼はしばらくいなくなり、
コーラとホットドッグとチョコレートを手にして戻ってきた。

「事務所にコーヒーもあるから、好きなだけ飲むといい。じゃあ私は家に帰るからね。
 明日の朝、胸の大ーきな女性がやって来るから、それまでここでゆっくり休むといい。
 ユニサイクルでアイスランドを走る君のニュースをカーラジオで聴けるのを楽しみにしてるよ!」

それだけ言って、陽気なおじさんはアッサリといなくなってしまった。
名前を聞くヒマもなかった。
アイスランド人の親切さは異常だ、という想いだけが残った。

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部屋はあったかい。
ホットドッグもチョコも、とてもうまい。腹が減ってるのがバレてたのかぁ。
そして何よりコーラとコーヒー。
とにかくノドが乾いてたんだ。
リュックに入ってた、溶かして飲むスポーツドリンクの粉末を舐めるぐらいに。

今日は本当に、色んな人に声をかけられた。

そしてなぜか、泊まるところすら提供してもらえた。

この国が、好きになれるかもしれない。

荷物、もっと減らさないと。