対馬旅 7月3日 その4

#こんなにも豆酘

小茂田を出れば、石屋根のある椎根を抜け、俺が対馬でもっとも心配していた山越えルートに入る。
だが悪水川に沿って伸びるひたすら長い山道も、バイクでならちょっと気持ちのいいワインディングでしかない。

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あ、これこれ。
対馬の山でやたらと見かけるこの物体。
これは昨夜、修行さんのお父さんに教えてもらったところによると、蜂洞(はちどう)と言う。
やっぱり蜜蜂の巣箱だったわけだ。

しかしすごいのは、この蜂洞が野生のニホンミツバチの巣箱であるということ。
蜂蜜といえばセイヨウミツバチを使った養蜂が一般的だが、ここは違うのだ。
日本在来種であるニホンミツバチが、対馬の山林のあちこちから自由に採取してきた花粉からできる蜂蜜。
これは相当に貴重なものだろう。土産として売っていればぜひ買ってみたい。
ちなみにこの蜂洞、山のあちこちに大量に仕掛けても、蜂が巣を作ってくれるのはごく僅かなんだって。

そんな蜂洞をいくつも横目に見ながら、日の暮れかけた山越えを終える。
徒歩旅で最後の野宿をした瀬の集落を過ぎればあとはもう一つ峠を越して豆酘(つつ)に向かうのみだが、
ここでちょこっと寄り道。
徒歩では寄る気にならずにスルーした場所がここにもあるのだ。

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美女塚。
瀬から豆酘に至る旧峠道の途中にある。

俺が以前から気になっていたのは、
この美女塚にまつわる逸話が、どのパンフレットにも詳しく書かれていないことだ。
かつて豆酘にいた美女の伝説があるということだけしかわからない。
一体どんな内容の伝説なのか。

その謎は、塚の横に配置された説明書きによってついに解明された。
そしてこれがまた、凄まじいとしか言いようのない伝説なのである。
たしかこんなような話だ。

昔、豆酘に美女がいた。
老いた母と2人で暮らし、よく働く気立てのよい娘であった。
やがて彼女の評判が都にも届き、貴人に召されることとなった。
娘は母を置いて村を離れることを非常に悲しんだが、申し出を断ることは許されない。
ついに迎えが来て、娘は駕籠に乗せられて村を出る。
その途中、村が見渡せる峠の頂上で、娘は小用に行くと言って駕籠から出た。
そしてその直後、舌を噛んで自害してしまう。
その時彼女は、こう言い残したという。

「こんな悲劇がもう二度と起こらないよう、これから豆酘には美女が生まれませんように。」

完。

…なんという呪いの遺言!
これってつまり、それ以降の豆酘には美女がいないということじゃないか?
豆酘に美女がいないからこんな話が伝えられたのだろうか。
しかしまぁこの人、こんなこと言っちゃって、さぞかし後の豆酘ガールズから恨まれたに違いない。

美女塚の伝説に衝撃を受けたからといって、そう長々と立ちすくんではいられない。
やばい、もう暗くなりかけている。

対馬で寄り道したかった最後の場所は、豆酘崎だ。
荒海をのぞむ断崖絶壁の先端に灯台があるという。
どんなところだろう。

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おお、まさに断崖。

岬をめぐる細い道路では、なぜか大量のシカにでくわす。
こんなところにシカが好む一体何があるというのだろう。
おまえらも驚いただろうが、俺も結構ビビッたよ。

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そして、豆酘灯台。

ついにここまで来たか。

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このへんでいいだろう。
ここが今回の旅の終着点だ。

もう時間も遅い。
ここからは対馬最南部の自販機のないウネウネ道はパスし、
最近できた綺麗なショートカットロードを通って一気に厳原まで帰還。
どうにか夜になる直前ぐらいに修行邸に戻ってくることができた。

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バイクで対馬を一周して帰還すれば、なんとご馳走が待っていた。

昨夜俺が何気なく話した、
「職質されたおまわりさんに対馬の魚を食べろと言われた」という話を覚えていてくださったのだ。
対馬でとれた新鮮な魚介類の刺身!これがうまくないわけがない。
ほかにもトビウオのフライや対馬産の対州蕎麦など珍しい料理をいろいろといただいてしまった。
さらには、俺がやたらとこだわっていた『ろくべえ』をもし食べられなかった時のためにと、

『インスタントロクベエ』

なるものまで用意されていた!
インスタントといってもお湯をかけるのではなく、
サツマイモデンプン製の麺とダシがセットになったようなものだが、これは素晴らしい。魅力的すぎる。
本来はハレの日の料理であったという手間のかかるろくべえをいつでも食べられるなんて!
インスタントロクベエ、なんで日本中で売られてないんだろう…。
要冷蔵でなければ土産と自分用にいくつか買って帰るところだ。

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和やかな夕食である。
ご夫婦の人柄に甘えて俺もいつのまにやらこの温かいお宅に図々しく居座っており、恐縮しきりである。

ところで、お父さんは対馬の中学校で社会科の先生をされていた方だ。
対馬のあちこちに家族ごと赴任し、最後の勤務地は豆酘だったという。
そういう経歴の持ち主なので、対馬各地の事情にとても詳しい。
昨夜も少し話を聞いていただいたが、徒歩旅ラストスパートで疲れていたのですぐに寝てしまった。
その点、今夜はじっくりとお話をうかがえるいい機会だ。

話題が石垣までたどり着けなかった金田城から、あの豆酘の美女塚伝説に移った時。
俺はここで、大変な勘違いに気づいてしまった。

「最後にこれ以上美人が生まれないように願ったなんて、後から豆酘の女性に恨まれたでしょうね。」

「いやいや、豆酘は今でも美人が多いんですよ。対馬には昔から、豆酘美人という言葉があるぐらいです。」

「つ、豆酘美人!?」

そうだったのだ。
豆酘には美人がいないことの由来としてあんな伝説が生まれたのだと俺は勝手に考えていたが、
これが完全に逆だった。
豆酘は美人の里だったのだ!
そうなると気になるのは、なぜ豆酘に美人が多いのか?ということ。

豆酘という集落は今でこそ厳原からクルマで1時間ぐらいで行けてしまうが、
かつて、といってもわりと近年まで、あのあたりは陸の孤島のような場所だったらしい。
陸よりは海をメインとして対馬でも独自の文化、交流を営んできた彼らは、
対馬の他の地域の人々から見ても異質な、排他的といってもいい独特な社会を築いていた。
その文化の特異さは、豆酘が民俗学の研究テーマとして度々取り上げられたということからもわかる。
たとえば豆酘方言は厳原の人にも理解できないらしいし、豆酘美人は鼻が高いことが特徴なのだそうだ。

これは東北の日本海側に、
時々ハッとするほどの色白で鼻筋の通った美人がいるという話をどうしても思い出してしまう。
俺が豆酘で聞いたお婆さんの会話に異質な成分を感じたことも、これで納得がいった気がする。
でもあの時はまだ豆酘美人という言葉を知らなかったので、
豆酘で誰の顔も注意して見なかったことが今さらながら悔やまれる。

豆酘の話に俺が熱心に食いついたためか、
お父さんは豆酘出身者が書いた豆酘の研究書というものを出してきてくれた。これがまた興味深い。
ここで内容をつぶさに紹介するわけにもいかないが、
豆酘というのは確かにかなり独自かつ厳格な制度・習慣を持って暮らしていた集落のようだ。
集落外の人間との交流や婚姻にも非常に厳しかったそうで、
お父さんの教師時代においても集落に溶け込むために大変苦労されたとのこと。

書籍にはもちろん美女塚伝説についても書かれていて、
豆酘の女性があえて美しさを隠すために、顔や服装を小汚く装っていたということもわかった。
おそらく伝説のとおり、その際立った美貌のゆえにトラブルが絶えなかったのだろう。
中でもこの豆酘出身者が著した書物ならではの情報としておもしろかったのは、
俺がさっき写真を撮ってきた美女塚の石碑、あれが最近になって設置されたものであるということだ。
一見古めかしいようだがあの石碑は近年に観光を目当てに建て直されたもので、
元々は供養のための無銘の石がポツンと置かれていただけの、地元民しか知りえない伝承の地だった。
その石を撤去してあんな石碑に置き換えられてしまったことが残念だ、本にはそう書かれてある。

美女塚が今のように観光地になっていなければ、今俺が美女塚伝説について知ることはなかった。
そういう意味では有意義な行為だったと考えなくもない。
だが、村の伝承とは、必ずしも万人に知られるべく伝わってきたものではない。
豆酘出身である著者の文章からは、そんな気持ちがにじんでいるようにも思う。
人類の長い歴史の中で、こうした伝承が無数に生まれては消えていっただろう。
伝承の本当の意味を知る人々が消え去る時、伝承もまた消えていくのは当然のことかもしれない。

俺がいつものように何気なく島に来て、旅をしていただけでは決して経験できなかったこと。
各地の文化や歴史、さらには郷土料理まで。
バイクを快く預かっていただき、泊めていただいただけでもありがたいのに、
これほどにも多く得るものがあった。
すべては北海道で出会った修行さんと、そのご両親のおかげである。

一日中バイクに乗ってほとんど歩かなかったせいで足の痛みもかなり軽くなった。
心地よい疲れと、またしてもたくさん飲んだビールの酔い。
今夜はしあわせに眠れそうだ。